沿革
明治
- 1912年(明治45年)
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4月吉本泰三・せい夫婦が天満八軒のひとつ「第二文芸館」(後の天満花月)を入手、寄席経営の第一歩を踏み出す その後、「芦辺合名会社」等と名乗り、次々と寄席を買収、チェーン化に乗り出す
大正
- 1915年(大正4年)
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10月大阪ミナミの法善寺「蓬莱館」を買収、「花月亭」(後に南地花月亭)と改称 当時の大阪の興行の中心だったミナミへの進出を果たす。今も続く吉本のブランド「花月」の名称を初めて使い、他の寄席も花月を用いた名称に改める
- 1917年(大正6年)
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「吉本興行部」の看板を掲げる
- 1921年(大正10年)
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7月京都の寄席も傘下に収める11月東京・神田の寄席を買収、「神田花月」とし、東京進出を始める 翌年には横浜花月、その後も昭和初期にかけて浅草や新宿などで劇場を開場、東京での拠点を拡大する
- 1922年(大正11年)
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9月長期にわたり対立関係にあった老舗株の「浪花三友派」などを吸収する形で、大阪の演芸界の大合同を果たす 大阪を筆頭に、京都、神戸、東京、名古屋など41の寄席を傘下に収め、配下の芸人は500名を超す。寄席、芸人、プロデュースの3本柱を効果的に連動させる経営スタイルで吉本興業の基盤を確立する
- 1924年(大正13年)
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2月吉本泰三が37歳で急逝7月キネマ部を設け、大阪・福島の寄席を改装し、「キネマ花月」としてオープン 活動写真の人気が上がり、映画館に変わる演劇小屋が出てくる中、映画事業進出の第一歩を踏み出す
- 1926年(大正15年)
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京都・新京極の「中座」を買収(昭和11年に京都花月劇場に改称)
昭和
- 1927年(昭和2年)
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8月松竹と連携して大阪道頓堀「弁天座」で万才大会「諸芸名人大会」を開催 大正後期から昭和初期にかけて、落語の人気が翳りを見せ始め、新たな大衆演芸として漫才(当時は万歳、万才などと表記)に着目、一大大衆娯楽として発展させる
- 1930年(昭和5年)
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大阪・千日前「南陽館」を万才の専門館にし、格安の十銭で開放
- 1932年(昭和7年)
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3月吉本興行部を「吉本興業合名会社」に改組、東京支社発足 演劇、映画などを催すことを意味する「興行」から、社業の飛躍と発展を願い、事業を興し、産業を盛んにすることを意味する「興業」を社名に用いる。翌年、「文芸」「宣伝」「映画」の3部門を整備
- 1934年(昭和9年)
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6月南地花月から寄席のラジオ中継を実施 「ラジオで無料で演芸を聞かせたら小屋にお客様が来なくなる」としてラジオ出演に否定的だったが、メディアと上手に付き合っていくという発想に転換、以後、芸人のメディア出演に力をいれていく10月日活と提携し映画「佐渡情話」を初めて製作、大ヒットを記録
- 1935年(昭和10年)
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8月PR誌「ヨシモト」を創刊 大正11年にも自社PR誌「演芸タイムズ」を創刊しており、創業まもなくから新聞などに加え自社媒体を駆使した宣伝活動を積極的に展開。以後も独自の雑誌などを定期的に刊行していく11月東京・浅草に「東京花月劇場」をオープン 後の浅草花月劇場。東京支社の本拠地となる。昭和10年代に入り、大阪を本拠に京都、神戸、東京、横浜、名古屋などで大衆芸能・映画の興行で不動の地位を確立する
- 1938年(昭和13年)
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1月日中戦争の慰問のため、戦地に「わらわし隊」を派遣 昭和12年の日中戦争以降、舞台の内容も戦時色が強まり、国内での慰問も行う
- 1939年(昭和14年)
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わらわし隊の後継を育成するため、養成所「漫才道場」を開校4月大阪・千日前南海通りに「大阪花月劇場」をオープン
- 1945年(昭和20年)
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3月東京と大阪の大空襲により、大半の劇場を焼失する。京都花月劇場と浅草花月劇場など一部は戦禍を免れる6月すべての演芸人への貸金を帳消しにして退職金とし、専属から解放、演芸陣を解散する8月終戦から2週間後に浅草花月劇場を再開 浅草グランド劇場と改称し、映画館に転換。その後、名称を元に戻し、演芸場、映画館と転換を繰り返し、昭和60年に閉館9月大阪花月劇場の焼け残った舞台を利用した寄席小屋を開場12月京都府からの要請で進駐軍専用のキャバレー「グランド京都」をオープン 花月と並び今も続くブランド「グランド」を初めて使用。その後、映画館を中心にグランドと称した劇場を次々とオープン
- 1946年(昭和21年)
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9月大阪花月劇場を「千日前グランド劇場」と改称し、洋画ロードショーの上映館としてオープン 映画興行の隆盛を受け、映画上映を主体にして各劇場を再開。京都花月劇場も昭和23年に映画館に転換浅草と横浜の劇場を大阪から切り離し、「吉本株式会社」(以下東京吉本)を設立。吉本せいの実弟の林弘高が社長に就任 東京吉本は銀座に本拠を構え、映画製作、演芸場運営、ラジオ制作など大阪と違って幅広い事業を展開。名古屋にも進出するが、業績を伸ばせず、昭和40年代に事業縮小、平成元年に最後の映画館を売却
- 1948年(昭和23年)
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1月吉本興業合名会社を「吉本興業株式会社」に改組、代表取締役に吉本せいの実弟の林正之助が就任(3月に吉本せいが取締役会長に就任)
- 1949年(昭和24年)
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5月大阪証券取引所に上場
- 1950年(昭和25年)
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3月吉本せいが60歳で死去
- 1953年(昭和28年)
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7月大阪・難波の現在のなんばグランド花月の場所に新本社社屋完成 昭和20年代後半、ラジオが普及し、芸人らが多数出演。演芸復興の動きが加速する
- 1957年(昭和32年)
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4月大阪・梅田の「梅田グランド劇場」を移転、拡大しオープン 地上1〜4階を「梅田グランド劇場」、地下1階を「花月劇場」と称する。いずれも映画館
- 1959年(昭和34年)
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1月山崎豊子原作で吉本泰三・せい夫妻の伝記的小説「花のれん」の映画が公開 この映画により、吉本の歴史が世間に伝わり、劇場の観客動員にも影響を与える3月梅田グランド花月地下1階の花月劇場を「うめだ花月劇場」と改称し、演芸場に転換。演芸再開を果たす 同日に開局した毎日放送がうめだ花月から、後の吉本新喜劇となる「吉本バラエティ」を生中継。うめだ花月からの中継は翌35年からレギュラー化され、「素人名人会」が第一弾となる。テレビの時代に突入する
- 1961年(昭和36年)
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10月東京証券取引所に上場
- 1962年(昭和37年)
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6月京都花月劇場を演芸場に転換(昭和62年に閉館)9月毎日放送が「花月爆笑劇場」としてうめだ花月劇場より吉本新喜劇の中継を開始
- 1963年(昭和38年)
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5月林弘高が代表取締役に就任7月千日前グランド劇場を「なんば花月劇場」として演芸場に転換(昭和63年に閉館)8月本社を心斎橋の「吉本ビル」に移転
- 1964年(昭和39年)
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4月現在のなんばグランド花月の場所に西日本最大のボウリング場「吉本ボウル」オープン(昭和61年に閉店) 戦後から高度成長期の復興を支える事業となる。以降も、時代のニーズに合わせ、飲食店やディスコ、クルーズ船なども運営し、事業の多角化を図り続けている
- 1965年(昭和40年)
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1月朝日放送が「お笑い花月劇場」としてなんば花月劇場より吉本新喜劇の中継を開始(昭和59年6月終了) テレビ中継でお茶の間に広がったことで、昭和40年代半ば、吉本新喜劇の人気が沸騰
- 1969年(昭和44年)
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7月毎日放送で「ヤングおー!おー!」スタート。番組制作をすべて請け負う「ユニット制作」を初めて手掛ける 昭和48年には毎日放送と共同出資でテレビ番組企画・制作会社を設立。以後、他局の番組制作も手掛け、コンテンツ制作の基礎となる
全国放送となったこの番組をきっかけに多数の所属タレントが全国的に人気となり、若いファンがうめだ花月に殺到する - 1970年(昭和45年)
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5月林正之助が再び代表取締役社長に就任
- 1971年(昭和46年)
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6月林弘高が64歳で死去
- 1972年(昭和47年)
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11月うめだ花月劇場が手狭になり、1〜4階の映画館「梅田グランド劇場」と入れ替わり、演芸場が主体になる
- 1973年(昭和48年)
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5月橋本鐵彦が代表取締役社長に就任
- 1977年(昭和52年)
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6月八田竹男が代表取締役社長に就任
- 1980年(昭和55年)
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10月東京・赤坂に「東京連絡所」開設(昭和62年に東京事務所に改称) 昭和55〜57年にかけて空前の漫才ブームが起こる。多くのスタータレントが誕生し、東京に相次いで進出。テレビ出演のほか、テレビ局と共同で制作する番組が急増する
- 1982年(昭和57年)
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4月「吉本総合芸能学院(NSC)」を開校 舞台に立つには師匠の弟子になるのが一般的だったが、吉本興業の門をたたく若者が増えたため、会社としてタレントを養成することに。平成7年には東京校も開校、多くの人気タレントを輩出していく
- 1986年(昭和61年)
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5月心斎橋の吉本ビルに「心斎橋筋2丁目劇場」をオープン 貸しホールを自社ホール化しオープン。NSC卒業生ら若手芸人の活躍の場となり、翌62年4月から毎日放送による生放送「4時ですよ~だ」がスタート。大人気を博し、その後も多数のスタータレントを輩出する。吉本ビル老朽化による建て替えに伴い、平成11年3月に閉館
- 1987年(昭和62年)
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11月大阪・難波に「なんばグランド花月」をオープン。心斎橋の吉本ビルから本社も移転 林正之助が「笑いの殿堂」と呼んだ吉本興業悲願の旗艦劇場。地下にはディスコも開店した
- 1988年(昭和63年)
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10月名古屋事務所を開設 以降、全国各地に支社や事務所を設立するとともに、直営劇場をオープンし、全国展開を進める
平成
- 1990年(平成2年)
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3月うめだ花月閉館。大阪・梅田の直営劇場がなくなる
- 1991年(平成3年)
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4月林正之助が92歳で死去中邨秀雄が代表取締役に就任
- 1992年(平成4年)
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7月東京事務所を同じ赤坂に移転し、東京支社に改称
- 1994年(平成6年)
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3月東京銀座に「銀座7丁目劇場」を開場(平成11年閉館) 浅草花月劇場以来の東京での直営劇場となる。翌年には渋谷にも劇場をオープンさせ、以後、東京や首都圏で直営劇場を増やしていく
- 1999年(平成11年)
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6月林裕章が代表取締役社長に就任9月大阪・難波に「baseよしもと」をオープン(平成22年12月閉館) 心斎橋筋2丁目劇場に代わる若手芸人専門の劇場としてなんばグランド花月向かいにオープン。M-1グランプリ優勝者などのスターを多数輩出する
- 2000年(平成12年)
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1月KDDIとの合弁で「株式会社ファンダンゴ」を設立 高速インターネット普及に伴うマルチメディアに対応するコンテンツ作成と配信を手掛ける。平成18年、大阪証券取引所のヘラクレスに上場、19年、吉本興業持ち株会社制度導入に伴い、完全子会社化して「よしもとファンダンゴ」に社名変更。22年の吉本興業上場廃止に伴い、よしもとクリエイティブ・エージェンシーに吸収合併される4月東京支社を東京本社に昇格(平成14年に東京本部と改称)
- 2001年(平成13年)
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4月東京・新宿に「ルミネtheよしもと」をオープン12月M-1グランプリがスタート 朝日放送テレビとの共同制作で日本一の若手漫才師を決める大会としてスタート。平成22年に第10回で一度終了したが、27年に再開した。以後、14年にピン芸人日本一を決める「R-1ぐらんぷり(当時)」、20年に「キングオブコント」などの賞レースがスタート。芸人の登竜門となる
- 2002年(平成14年)
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5月日本経済団体連合会(経団連)に入会
- 2005年(平成17年)
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1月吉野伊佐男が代表取締役社長に就任
- 2007年(平成19年)
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10月吉本興業グループ持ち株会社制度を導入 持ち株会社を吉本興業(株)とし、「よしもとクリエイティブ・エージェンシー」「よしもとデベロップメンツ」「よしもとアドミニストレーション」を新たに設立。「よしもとファンダンゴ」とレコード会社「よしもとアール・アンド・シー」の5社を傘下とし、グループの体制を強化
- 2008年(平成20年)
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4月吉本興業グループ東京本部を現在の旧新宿四谷第五小学校に移転コンプライアンス推進委員会を設置
- 2009年(平成21年)
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4月大﨑洋が代表取締役社長に就任9月株式上場廃止に向けて元ソニー会長が組成する特定目的会社「クオンタム・エンターテインメント」が吉本興業株を公開買付、子会社化に成功 敵対的買収を未然に防ぎ、中長期的な視野で迅速に経営判断を行うため、株式の上場廃止を決断。クオンタム・エンターテインメントが民放などメディア関連企業から出資を募り公開買付を実施した
- 2010年(平成22年)
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2月東京・大阪の各証券取引所で上場廃止6月クオンタム・エンターテイメントと吉本興業が合併し、新生「吉本興業株式会社」誕生
- 2011年(平成23年)
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5月「47都道府県エリア(あなたの街に住みます)プロジェクト」スタート 47組の芸人が全国に移住し、「住みます芸人」として活躍。以降、「地域創生」が経営の一つのテーマに
- 2012年(平成24年)
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4月創業100周年を迎える
- 2014年(平成26年)
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12月上方漫才協会を設立若手芸人が出演する劇場「よしもと漫才劇場」がオープン
- 2017年(平成29年)
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3月2015年に国連で採択された持続可能な開発目標(SDGs)の啓蒙活動スタート
- 2018年(平成30年)
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4月「学校法人ラフ&ピース」設立。沖縄・那覇に「沖縄ラフ&ピース専門学校」開校
令和
- 2019年(令和元年)
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6月「吉本興業株式会社」を「吉本興業ホールディングス株式会社」に社名変更。「株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー」を「吉本興業株式会社」に社名変更岡本昭彦が代表取締役社長に就任(株式会社化後、十代目の社長。令和2年に代表取締役社長CEOに肩書変更)
- 2020年(令和2年)
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4月新型コロナウイルス感染症が拡大。政府が緊急事態宣言を発出したことを受け、全劇場を一時閉鎖 6月に一部劇場でお客様を入れての公演を再開し、以後、令和3年末にかけて、感染状況に合わせ、客席の使用率などの規制と緩和を繰り返す6月オンライン有料配信サービス「オンラインチケットよしもと」スタート 新型コロナ禍で劇場が一時閉鎖され、再開後も集客が難しい中、視聴者を増やし、芸人の仕事と収入を確保。その後も劇場と配信のハイブリッド公演が主流になる11月反社会的勢力排除宣言を公表
- 2021年(令和3年)
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4月コンシューマー向けエンタメサービスのブランドを「FANY」に統合 チケットよしもと、オンラインチケットよしもとをFANYチケット、FANYオンラインチケットに変更。ファンと直接つながるFANYコミュなどの新サービスを開始。オンライン配信には他事務所に所属する芸人も参画するなどオープンプラットフォームに
- 2022年(令和4年)
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2月2025年大阪・関西万博へのパビリオン出展が内定3月BSよしもと開局4月創業110周年を迎える10月「吉本興業110周年感謝の日」大阪開催11月「吉本興業110周年感謝の日」東京開催
- 2023年(令和5年)
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5月NTTドコモと合弁会社「株式会社NTTドコモ・スタジオ&ライブ」設立10月2025年大阪・関西万博パビリオン「よしもと waraii myraii館」構想発表12月中国・中央広播電視総台(CMG)と戦略的協力契約を締結
- 2024年(令和6年)
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1月東京ドームシティ内に「IMM THEATER」オープン