落語家にはほかの古典芸能と同じように、襲名制度が存在し、由緒ある名跡が師弟関係などによって、何代にもわたって受け継がれている。
桂を名乗る落語家の始祖は、江戸時代の寛政から文化年間(1795 ~1815頃)に活躍した初代桂文治である。文治は落語興行を寄席形式にした最初の人物のひとりとされている。また多くの作品を残し、その門流は現代までもつながっており、笑福亭と並ぶ上方落語界の一大勢力になっている。
文治の名跡は、三代目から東西の落語界に分かれ、四代目も東西に誕生した。当時の上方落語に関する文献や資料は非常に乏しく、確証の取れるものばかりではないが、残されたわずかなものをつなぎ合わせると、次のようなことがわかる。
天保から嘉永にかけてのころ(1840 ~1850頃)、桂慶枝を名乗っていたのちの上方四代目文治のもとに、笑福亭梅花門人の萬光が移籍してくる。元は三文字屋万兵衛という家具職人で、22歳のときに梅花に入門したという。三代目文治へ入門したという説もあり、さらに移籍したのかもしれないが、いずれにしても芸熱心であった萬光は瞬く間に腕を上げ、師匠慶枝の前名である桂文枝を名乗ることになる。その後、「その頃、京阪間に誰一人として、この文枝に肩を比ぶる者なかりしとぞ」(明治13年4月11日付「大阪朝日新聞」桂文枝七回忌追善供養記事より抜粋)というほど、売れに売れ、特に京都から大阪への淀川を下る船旅を描いた「三十石」の人気ぶりはのちにいろいろなエピソードを残すほどであった。
文枝の師匠の慶枝は安政2年(1855)に四代目文治を襲名するが、不幸にも早世したようである。そこで四代目門下で人気も実力も抜きんでていた文枝へ、次の五代目の襲名話がまわってきて当然だったのだろうが、何しろ文枝の名で大いに売れているので、この話は実現せずに初代文治門下の生き残りで落語作家となっていた月亭生瀬が上方の文治の名跡を預かることになった。また、文枝は仲間や興行関係者からの徳望もあり、どこの寄席の主人も、文枝の肖像を床の間にかけて敬ったという逸話も残っている。
その結果、文枝は一代で文治を超える大名跡となり、桂派の総帥となった。明治維新の戸籍作成では、本名を桂文枝としたほどであったし、実際は初代ではないのに、それ以前の文枝の事跡を消し去るほどに、この文枝は大看板となったのである。このような例は、上方では笑福亭において、遠祖とされる松竹や始祖の吾竹ではなく、元来吾竹の弟子であった松鶴が家元名になったことや、また江戸・東京でも二代目三遊亭圓生門下の圓朝が、人気実力で抜きんでたため、圓生よりも圓朝のほうが大きな名跡と認識されている事情と通じるところがある。
これほどまでに売れ、また尊敬を集めた文枝であったが、その姿を映した写真は発見されていない。ただ、幕末から明治にかけて数多く摺られた流行唄の版画の中に、その姿だと思われるものが1枚ある。「文」の文字を4つあしらった「文枝紋」を染め抜いた羽織を着て、首に帯をかけて古の美男子・在原業平と「首引き」という遊びに興じる姿。どれほどこの絵姿が似ているのか、ほかに比較するものがないので判断する術がないが、一緒に摺られている大津絵節の歌詞によれば、顔にあばた(疱瘡の跡)ができてしまって気の毒だが、業平にも負けない男前だとあるので、かなりのイケメンだったのだろう。
一方、芸談やエピソードで有名なのは「落語『三十石』の質入れ」の話である。博打に負けて金に困った文枝が十八番だった落語「三十石」を質入れし、高座へかけることを封印してしまう。文枝の「三十石」をどうしても聞きたいという贔屓の客が大枚をはたいて引き出し、復活公演にかけつけた客でしばらく寄席は大入りが続いたという。金高や客の名前に諸説あり、実話かどうかも確証はないが、さほどに文枝の「三十石」は人気が高かったのであろう。
明治中期、桂派と浪花三友派が話芸を競い合い、上方落語の黄金期を築き上げたとき、この中心になったのが、初代文枝門下の四天王と呼ばれる面々であった。のちに二代目を襲名する初代桂文三、初代桂文團治、二代目桂文都、初代桂文之助の4人。襲名争いに敗れた3人の一門は浪花三友派に籍を置くことになり、桂派はもちろん二代目が中心となる。
二代目文枝は紀州粉河に生まれ、堺の伯父の元に預けられて丁稚奉公にでたが続かず、素人落語に加わって南光を名乗る。その後、明治2年に当時の上方落語界で一派をなしていた立川派の一門となって立川三木助を名乗って正式に落語家として歩み始めた。四代目まで続く(桂)三木助の初代ということになる。そして、明治5年に文三を名乗って、文枝門下に名を連ねることになったのである。
明治7年に初代文枝が亡くなると、師名をめぐる襲名争いが起こる。争いになるほどに、文枝の看板は憧れの的であったのだ。決着するのは七回忌の法要のときに、初代の未亡人が門下の文三、文都、文之助を呼び、文三を推したことがきっかけになる。文三と文之助の間で折り合いがつくまでに1年間かかり、明治14年12月に二代目文枝襲名が行われた。
二代目文枝は芸もさることながら、人格者であり引退後は心学道話の道に入ったという。淡々とした語り口は大人の風格があり、明治末期に桂文枝名で発売されたSP盤レコードは、その語り口調からおそらく二代目ではないかと考えられている。レコードの声の主がなぜはっきりしないのかというと、レコードの発売時期には二代目は出身地の紀州にちなんで文左衛門と改名し、三代目に文枝の名を譲っていたからである。そのために三代目の可能性も残るのだが、海外でプレスをするために、録音から発売までに相当の月日を要した時代であったし、声質から二代目の可能性が高いと考えられているのだ。
二代目から生前に三代目を譲られた次の文枝は、近所に住んでいた初代文枝に可愛がられて落語家になったという経歴の持ち主。初代の隠し子ではなかったかという説さえあり、二代目の薫陶をうけて早くから人気者になったが、47歳の若さで病没。死後、上方落語の本流であった桂派は急激な衰えを見せ、のちの上方落語衰退の遠因となった
上方落語の最高名跡であった文枝の名はその後、35年以上も空位のままとなり、戦後の上方落語復興期に三代目の弟子であった枝三郎が四代目を襲名する。昭和22年3月頃である。上方の落語家が十数名という時代にあって、落語家暮らしは苦労の連続であり、踊りの師匠を兼ねて糊口をしのぐという状態であったが、バトンをつないだことによって、次の五代目でまた大きな花を咲かせることになる。
文枝の名跡は四代目没後、またもや約35年もの空位となる。しかし四代目門下で、上方落語の四天王の一人、小文枝が盛大な披露目を行いみごとに復活させた。五代目文枝は、昭和22年に四代目に入門。当時の若手落語家は、のちに四天王と呼ばれる、六代目笑福亭松鶴・三代目桂米朝・三代目桂春團治と文枝の4人。さらに、このあと師匠連が相次いで亡くなる中、4人が第一線へ放り出されることになるが、粉骨砕身し、 滅んだとまで言われた上方落語の復興に力を尽くした。型にはめることのない育成方針から、落語家だけでなく多分野で活躍する弟子も育て、昭和59年から平成6年まで上方落語協会の四代目会長を務めた。華やかで陽気な語り口に定評があり、平成9年紫綬褒章受章、平成15年旭日小綬章受章。没後の平成18年3月に大阪市中央区の高津神社境内に、「五代目桂文枝之碑」が三枝を筆頭とする門人たちによって建立されている。
心斎橋界隈にあった家具職(鍛治職トモ)の家に生まれ、天保11年に笑福亭梅花門下となって萬光を名乗り、その後四代目桂文治門下に移って、四代目文治の前名であった文枝を名乗った。藤兵衛という贔屓客に容貌が似ていたことから、本人も藤兵衛とあだ名された。
戒名:桂寿院善誉諦心文枝居士(全慶院)
写真は初代文枝愛用の火鉢
素人噺家で南光(初代)を名乗り、その後、立川三光(三木トモ)門下となって初代立川三木助となる。明治5年に初代文枝門下で初代文三を名乗り、文枝門下四天王の一人とされた。明治14年に二代目文枝を襲名。明治37年に三代目に譲り、桂文左衛門を名乗った。
戒名:桂光院栄誉桃子居士(大鏡寺)
初代文枝門下で小文を名乗って6歳で初高座。初代没後の明治7年に初代桂文三(二代目文枝)門下に移り、13年に小文枝(初代)と改名。明治37年に三代目文枝を襲名した。若くして初代法要の施主を務めている新聞記事が残ることなどから、初代文枝の実子ではないかという説が有力である。
戒名:我友軒豊誉雀年性瑞居士(全慶院)
三代目文枝に入門しあやめ(初代)を名乗り、明治40年5月に新町の瓢亭で初舞台。44年に枝三郎 (二代目)と改名。その後、橋本文司、戦後は橋本文枝を名乗ったこともあったが、昭和22年春に四代目文枝を襲名した。舞踊の名取で坂東三之丞の名を持ち、高座で踊りを見せることも多かった。
戒名:釈文枝(一心寺納骨堂)
昭和22年4月に四代目文枝に入門し、あやめ(二代目)を名乗る。29年に三代目小文枝、平成4年に五代目文枝を襲名。松鶴・米朝・春團治とともに上方落語の四天王と呼ばれた。「はめもの」と呼ばれるお囃子が入る話を得意とし、また女性を演じさせて他の追随を許さなかった。
戒名:多宝院光徳文枝居士(印山寺)